とても短い旅の始まり         シノザキ    どうしてこんなことになっているんだろう。  三橋雫帆は後悔していた。  最初はただの夢だったはずなのだ。  砂漠に覆われた劇場で小さな生き物――小人と言っていいのだろうか――を助けたと思ったら、巨大な手が現れた。そこから逃げようとしたら座席の上の階から雪崩のように大量の砂が来て必死で逃げ、そうこうしている内に砂嵐に巻き込まれ、気付いたら、砂漠にいた。  人に追われ、捕まり、聞いたことのない言語が飛び交う中心細さで泣き、知らない場所に放り込まれたと思ったらそこでも騒動が起き、無我夢中で掴んだ服の持ち主が、大柄で強面の男だった。  泣きじゃくりながら服を離そうとしない雫帆に、どうやら男も観念したらしい。そのまま男にくっついていく形で連れられて、今に至る。  雫帆には分からないが、この小さな町はアムエトと言って、主に宿泊地として栄えている場所だった。 「巡歴の神の加護石を一つ。古いがしっかりしてる物を」 「ほう、珍しいな。手馴れてるあんたが」 「俺じゃねぇ。こいつだ」  男が言うと、店主はちらりと大柄な男――イレンの陰にいる雫帆を見た。言葉が分からない雫帆は、つい伺うような格好を取ってしまう。その様子と格好から、気弱げで頼りない少年と見た店主は、ははあ、と何度も頷いた。 「なるほどなぁ。その神様の加護はその坊主にゃ必要だ」 「まあ、な」 「ほれ、加護石だ。あとこれもおまけでやるよ」 「助かる」  『ちゃろすたと……? ちゃろすたと……』  男たちの会話の横で、その言葉の意味が分からず、ぶつぶつと雫帆がつぶやき続ける。お守りみたいなものなのか。魔除けなのか。それともパスポートなのだろうかと、唸るように呟きながら小首を傾げ考え込んでいる雫帆の様子に、わずかな気味悪さを覚える。  しかし先ほど何度か出てきた巡歴の神≠ニいう単語が気になるのかと思い直す。  巡歴の神の加護石は、旅をする者のほとんどが持つ。初めて街を出る者や、行商人、危険な地域に旅立つ者、そんな人間を加護する。その神のことを、人々はチャロス・タトと呼ぶ。無事に旅立つことが出来るように。或いは、何事もなく生きて旅を終えることが出来るように。  そうして旅を終えるか、定住を決めるかすると、その石は街の石売りや行商人に売られる。出来る限り古く、壊れにくいであろう物を選ぶのは普通のことで、それだけ多くの人間を加護してきた証拠だからだ。  大事なものなため、忘れないよう最初に買ったのである。  店主から、平べったいが年季の入った藍色の石と、長めの紐がついた皮袋を受け取る。表面をさっと眺めると、皮袋にそれを収め、雫帆の腕を軽く手の甲で叩いて目配せをする。  叩かれたことに驚き、雫帆はイレンを見上げた。イレンは軽く皮袋を掲げて見せ、紐の部分を持って輪の形に広げた。それを、少女の首にかける。 「無くすなよ」  ひどく真剣な眼差しで、皮袋を示し、言う。  そんな男の様子に、男装の少女は胸にかかった少し重い皮袋と、男の指、そして再び男の表情へと目を移す。大事にしろ、という意味であると解釈し、男の目を見て力強く頷いた。  その日は、主に雫帆の旅支度に始終した。イレンに保護されてから、大雑把に大人用の服の裾を詰めた服であったため、さすがに動きにくいだろうと判断してのものだった。雫帆としても、いささか動きにくかったので助かったところである。  宿泊所に着き、砂風除けを取る。雫帆もイレンの行動に倣おうとしたが、どこをどう外せばいいのかが分からずもたついてしまう。次第に躍起になる雫帆を見かね、イレンは無言で布に隠れた紐を指差す。あ、という顔をした後、言いようのない気恥ずかしさに襲われながらも無事に脱ぐことが出来た。  その頃にはイレンはチュニックのような服も脱いでおり、シャツにベストのような軽い上着、ズボンという軽装になっていて、荷物の中から木の実と短刀を取り出していた。  上着を脱いだだけで疲れてしまった雫帆は、興味津々といったていで見つめる。  見た目は殻のついたままのクルミだ。  男は割れ目に短刀の先端を当て、こつ、こつ、と軽くめり込ませる。その後、トンッと強めに柄の先端を叩くと、小気味よい音とともに、黄色がかった実のような何かが現れる。つるりとした球体の実は瑞々しく、男は骨ばった手でそれを転がすように取り出した。3回4回とそれを繰り返し、そのうちの一つを無言で少女に突き出した。 『? あ、あの……、?』  突然の行動に戸惑いながらも受け取ってしまう。 「食え」 『……?』  困ったような視線に、見本を見せるのが早いと、実を見せた後口に放り込む。分かったか、と同じように視線を送ると、合点がいったという表情になっていた。  まじまじと木の実を眺め、そっと一口だけ齧る。  甘酸っぱい味が口の中に広がるのと同時に梨に似た香りがした。意外な美味しさに噛んだ部分を見つめながら咀嚼する。 『おいしい』  どうやら気に入ったらしいと判断したイレンは、食べ終わった頃を見計らいもう一つを投げてよこす。とっさに手を伸ばすものの受け取り損ね、床にトンと落としてしまった。慌てて床から拾い上げ、軽く息を吹きかけ衣類で軽く拭き、口の中に入れた雫帆の焦る様子に、思わず笑ってしまった。  夜が更け、そろそろ火を落とさなければいけない時間になる。 「昼は寒いが夜は暖かいから気をつけろ」  とは言うものの、その言葉が通じている様子が無いことは、雫帆の表情を見ればわかる。  まあ自分がやれば真似くらいはするだろう、とイレンは質素な寝台に体を横たえた。