赤い椿が咲いていた。真白い雪の中に、一輪だけ。 * [咲かずの椿、燃ゆる雪。] *  たとえば。  例えば、俺は、お前に初めて会った時に交わした言葉さえ覚えている。  例えば、俺は、お前が気付いていないようなお前を知っているし、お前が忘れてしまったようなお前も覚えている。  そして、例えば、この想いだ。(褪せることなど、決して、)  幾らでも挙げられる。俺の中での、お前の位置付けを示す証拠など。きっとキリがない。  例えば、お前の為ならば、自分の身を挺すことを犠牲だとは思わないのだ。  幾らでも、俺は。 * 「『さよなら』って、素敵な言葉だと思わない? 逝く時の、別れにちょうどいい言葉だ」  主はいつもそう言った。口癖と呼べるそれは、死を拒まない、という態度の顕著な表れだった。世界をどうでもいいと思いながらも、しかし毅然と生きる主の、それが、数少なく表される情趣の言葉だった。 「だから、私は君と離別する時には『さよなら』と言うよ。大丈夫、虚無感なんてものは、たった数瞬の幻だから」  そう言って宥めるように口元を緩ませるのが、上辺でしか笑わない主の一番優しい笑みだった。  そうして、  そうして、主はいつも俺の目を覗き込んで、言った。普段振りまきっぱなしの愛想からは想像もつかないような真剣な目で、言い聞かせるようにゆっくりと。 「そうなれば、君はようやく、私から解放される」  自由に、なれるんだ。  まるで、それが、俺の望みであるかのように。 *  『けいか』というのが、当時幼かった主が自分に付けた名前だった。『炯伽』。今となっては、呼ばれることは殆ど無い、名前。主は大抵、俺のことを『君』と呼ぶからだ。  主が独り立ちをしたその日から、主の『僕』は『私』になり、『けいか』は『君』になり、その改めに感化されて俺の『お前』は『主』になり。  つまり、その日を境に、主も俺も、主従という関係の見方捉え方が急激に変わった。 「君は、私を見てくれるんだね。」  笑みをかたどって言われたその言葉は、俄かに、泣きたいような気持ちを浮き上がらせた。確かに、主をちゃんと見ていたのは俺だけで、逆に俺をちゃんと見てくれていたのも主だけだった。要らない子と、要らない子。共に家を離れることに反対される訳も無かった。  そんな境遇があるからこそ、依存し合いながら共立しているのだ……と。ずっとそう思ってきた。少なくとも俺は、互いにそう思っていると、そう認め合っていると。互いの互いへの感情は同じなのだと、ずっと。  だから、初めてそれを言われた時、言われたことの意味が全く理解できなかった。主が何を言っているのか分からなかった。それが、紛れもなく自分に向けられた言葉なのだということ、どういう意味であるのかということ。時間をかけて考えて、考えて考えて、考えて。……それらを理解した瞬間、穏やかだった世界は、確かに、大きく揺らいだ。  つまり、主は、俺にとって自分が枷になっている……と、そう思っているということだ。負い目を感じているということだ。  ――愕然と、した。それは、傍目にも明らかな擦れ違いだった。心の有り様は同じなのだと、ずっとそう思い続けてきた己を瞬間的に突き壊す、絶大な擦れ違いだった。  なんで、と思った。思った瞬間には口に出ていた。 「なんで」 「うん?」 「なんで、そんなことを言う?」 「……」 「……」 「……」 「……なんで。」 「……でも、そうだよ?」 「言葉の正当性を聞いてるんじゃない。分かっているだろう」 「分かっている、けどね。」 「……」 「……」 「……なんで、そんなことを言う。」 「…………。」 「主、」 「……はぐらかすって決めてたから、言わないよ。  いくら君でも。君だからこそ、かな」 「……、」 「言わないよ」 「……。」 「言わない。だから、今後もそれは、聞かないように。」  得られた理由は、たったそれだけ。つまり、無いに等しかった。  なんで主がそんなことを言うのか。それは、主が俺には知られたくない何らかの理由があるから。何らかの理由……負い目を感じる理由は、明かされない。そして、明かされないままに、尋ねることさえ禁じられてしまった。  つまり、擦れ違いは擦れ違いのままだ、ということ。ほとんど一本に近いのだと思っていた平行線が、曲がってはっきりと二本に別れてしまった、ということだ。曲がる方向がそれぞれ異なってしまえば、その先で再び交わることなど容易に望めるものでは無い。  ……妥協するしか、なかった。  主が望むのだから、問い詰めはしない。だからといって、その言葉を受け入れられるわけでは決してない。仕方ない……仕方ないが反論は諦めて、ただし、せめてもの抵抗表示で聞き流す振りをする。聞き返しはしない、代わり、聞き入れもしない。主の望みだから無視はしない、代わり、俺の意思も無視はさせない。同等の交換条件、それが最大限の妥協だった。 「私と離別したら、君は、自由だから」  何が? 何が、自由なんだ。何を以てそれが「自由」だ、と。  主の言う「自由」が、分からなかった。そしてそれは今も分からないまま。  俺は、主と共に在れれば、他に何も望みはしないのに。何を望もうともしないのに。俺を俺として扱ってくれる、ただひとりの人。主と共に在れれば、それだけで。  主との離別が「自由」なのだと言うなら、そんな自由は必要無い。そんな自由など。  何故、主と離別しなければならない? その前提は何処から来たのか。死の離別について考えるには、俺は勿論、主にしても早すぎる。ならば、主の言う「さよなら」は一体何を前にした「さよなら」なのか。考えて、考えて考えて、……しかしやはり思い付く事は何も無く。  主が「自由」を持ち出す度に浮かぶ疑問の山は、切り崩せる隙間さえ無いまま。 *  梅雨と冬が嫌いだ。それは、自分の体質ゆえの苦手意識から来るものだ。体温調節を怠って雨や雪の中を出歩くことは、下手すると命に関わってくる。しかし、だからといって、避けられるものでもなく。 「あ、」 「どうした」 「うん、降ってきちゃった。ほら」  初雪。  声音に促されて、窓の外に視線を向ける。灰色の空から音も無く落ちてくる白い水。 「……最悪」  ゆっくりゆっくりと空気を染めゆく小さな結晶。大地の息吹を覆い、生命の熱を攫い、黙々と世界を侵していくもの。俺から、命を奪うもの。 「しばらく、外に出る時は要注意だな」 「そうだね。大丈夫、ぬくぬく身体休めて、基本的に引き籠もっていれば心配いらないよ」 「引き……まぁ、そうだけどな、」 「体質なんだから仕方ないよ、気落ちしないの」  そっと主が笑う。意識せず、口から大きな溜め息が出た。でも、確かに、仕方ない。冬の間の辛抱だ。空を見るとどうしても苦々しい目付きになってしまうが(それでなくても目付き悪いのにね、と主に言われたことがある。自分でもそう思った)、天候など、それを司る者以外が勝手に変えていいものではないのだから。  と、溜め息混じりで考えていたのが今朝方のこと。そして今。 「……う、わ、これはー、ひどいね」 「……。」  ちらほら具合だった雪は、止むどころかそのまましんしんと降り続いたらしい。現在、昼過ぎ。扉を開けた先、視界に入ってきたのは、全てを真っ白く覆い尽くされた世界だった。顔をしかめて、溜め息を一つ。  しかし、憂いたところで、外出しなければならないことに変わりはないのだ。 「ごめんね、私が行ければいいんだけど」 「来客の予定ばかりはどうしようもない。平気だ、何か発作が起こるわけでもないしな」  仕方ない、と、ゆるゆる息を吸い直して。 「いってくる」 「いってらっしゃい。ありがと。  ……あぁ、」 「どうした?」 「ううん。椿がね。今年はまだまだ咲かないの」  しゅん、と。  玄関先には、椿が植わっている。主が好きな赤い椿。家を出る時に一緒に連れてきた、主の大事な御守りだった。毎年、開花時期はばらばらな、不思議な椿だ。今年はどうやら遅咲きらしい。 「楽しみだね。咲いたら、いつも、嬉しいことが起こるから」  そわそわとする主に、小さく笑う。 「待ちぼうけだね。  ……あぁ、ごめんね、寒い中引き止めて。  今度こそ、いってらっしゃい」 「はいはい」  他愛無い言葉をやんわりと交わして。  ようやく、外へと一歩踏み出した。  白く白く、空気が変わった気がした。  雪が降る勢いは、もう大したものではない。 *  外出半ばで、忘れ物があることに気付いた。  反射的に舌打ち。  このまま済ませてもいい気はしたが、いずれ、雪の中を再度出かけ直さなければならない可能性が僅かでもある以上、億劫だが、一度出直してでも今日のうちに全て済ませた方がマシだろう。  もう、雪は止んでいた。静かに、積もった白が踏み固められていく。 *  思った以上に、暗くなるのが早い。  まだ夕刻に差し掛かるくらいだと、そう急いてはいなかった。だが、夕刻に差し掛かった、その後の空の移り変わりが恐ろしく早く。 (甘く見ていた。)  戻り先が近くなるごとに、早足が増していく。まさに、脇目も振らず、さっさと出直さなければと、そればかりを考えて。  家が見える所まで来ると、もう本当に周りなど見えていない。  白い白、濃藍を帯び始めた白。雪の色しか、どうせないのだと。  そんな中、辿り着いた扉の前。  はぁ、と息を吐いた。溜め息なのか達成感なのか、よく分からない。  だが、用事はここで折り返しだ。早く済ませなければ、と、焦りと脱力が混じったような思考で。  視界の端に、小さな赤。 (……あぁ、椿咲いたのか。後で主に、) 「だ、め。」 「え、」  けいか。  扉は、開ききらなかった。  あかい椿が咲いていた。真白い雪の中に、一輪だけ。  ……花が最初に開くには、あまりにも不自然な、低い位置に。  視界に入った時は気にも留めなかったのに。今になって、こんなにも思い返すのは。 (ゆい。)  きっと、扉を開けたら、自分の過ちを笑ってくれるはずだと、信じていたから。 (『さよなら』は、言えなかったな、) * *** 咲いていたのは君のあか。 * 4011文字。 補足は無しで。