ある底辺からのルポルタージュ  ある人の話をしたいと思う。  ある人は少し知的障害の疑いのある人で、要は社会人としては、まだまだ未発達だった。彼は彼なりに一生懸命、仕事をしていたのだが月の給料は六万。だが、彼は自分の低賃金を全く気にかけていなかった。知的障害の彼は給与が違法であることにも気づかないぐらい純粋というか、馬鹿だったからだ。彼を雇った会社はいい駒ができたと思っていたのかも知れない。彼は仲間に特に表だって中傷されることはなかったが、後々、給与が異常に低かったことに気付いた。でも、彼はそのことに何の問題があるか分からなかった。実家から毎日仕事に行き、月に数度、同じく知的障害のある友達や、彼の給与が目当ての、彼とは違う意味で馬鹿な人達に、財布が空になるまで奢ることで、喜ばれることが快感だったからだ。意味のない人生などとか、そういう高尚なことを考える頭もなかった。だが、職場での異動があってから、新しく関わることになった人達に彼はおちょくられるようになった。  常識人とかけ離れた行動の数々を馬鹿にされ、たまには小突かれ、――でも彼は特にそのことを異動する前の人達に相談することもなければ、ただただ我慢していた。何か、自分が主張をすれば全てが壊れることを知っていたのかも知れない。深く知覚する頭はなかったが、月六万円であれば雇ってあげてもいいという社長と社長夫人の情けで、ようやく社会人らしくなれたこと。移動した場所での彼らが彼をおちょくるのは彼でも働けるという事実が、彼らの自尊心を傷つけているのだということ。だから、彼はどちらかというなら罪悪感で一杯だった。苦痛を感じている彼自身を情けないと思って黙っていた。  でも次第に酷くなる、からかいと何よりも決定的だったのは彼が好きだった先輩の反応が身に沁みたからだった。職場内での異動があってから、彼は好きだった先輩と離ればなれになった。(先輩は稀に見る好人物である。先輩の家には大勢の友の誰かしらが自宅に帰ってくるように毎日訪れている。妻は看護師であり、また妻の母は看護婦長という、人生基盤は盤石なものだった)それだけなら特に問題はないのだが、先輩には社長からいわれた義務があった。何事にも未発達な彼を、彼の実家まで毎日送り迎えしなければならなかった。同じ職場内であった時は、就業時間帯が同じなので、気のいい先輩も特に彼を、送ることに対して際立った不満を覚えていなかった。  しかし、離れてからというもの、気のいい先輩の拘束時間は彼を待つためだけに伸びることになった。そのことに関して、会社から特に手当が与えられるわけでもない義務である。彼は先輩に悪気を覚え、行きと帰りの車内でそのことを謝ったが、離れた最初の数ヶ月をいえば、先輩は以前と同じく気の良い表情のままだった。ただ月日が経つに連れ、彼は先輩の変化を感じるのだった。気のない返事、聞こえなくなった笑い声、弾まない会話、疲れだけの表情。(丁度、彼の先輩は赤ん坊を授かった頃だった。早く家に帰りたかったのも理由だったかも知れない)  結局、男前で性格も良く出世頭である先輩に気を遣ったのか、社長は彼の運転手を異動した場所の人達に頼むことにした。当然、送り迎えに関して、特別なお金が与えられるわけではないので、新しい運転手の鬱積に端を発する、彼へのからかいは虐めの質へと変容することになる。彼の心は次第に荒んでいった。乗車する度に五百円を強要され、彼の給与はフルタイムであるに関わらず五万円まで落ちたのも原因である。彼は久しぶりに叫びたい気持ちに襲われた。社長に相談すれば、異動先の人達が最悪職を失うことになり、また何よりも、会社に暗い影を落とすことになる。と同時に彼は悪感情を覚え始めていた。彼の仕事量は本当に六万円の価値しかないのだろうか? 社長が社員を連れていく遊びの数々(彼はめったに呼ばれることはない)、私学に通う二人の娘、玄関にある高級車、二匹のラブラドール、立派な家、毎日社員に差し出されるアルコール類、彼は会社の人達の笑顔が何か自分が作ってあげているような傲慢な気持ちになり、でも、決して、そんなことがあるはずがないとも感じられ、酷く情けない気持ちになり、気付けば泣いていた。  その後の彼についてのことは、ここでは書かない。代りに一つの詩と、その後に先輩の身近で起こった出来事を書こうと思う。  自分から命を捨てるまで、苦悩を全く隠せてしまうことができる才能の持ち主もいる。だから、いなくなるまで誰も気付かない。いなくなって初めて、微かに覗かせていた信号に気付く。もし貴方に愛しい人がいるならば、時に笑顔をつまびらかに観察しなければならない。それが真に心からのものなのか、どうかを。もしも、その中に陰影が隠れているようであれば、間違えることも必要である。貴方は広げれるだけ腕を広げなければならない。もし地球を囲んでしまえるほど、腕を広げれるような気がしたならば、腕が細くなって見えなくなるまで伸ばしてあげればいい。そうすれば貴方の腕は風となって、例えば路地裏で、その人が泣き続けている時も、やがて静かに優しく乾かすのだから  彼が慕っていた先輩の妻がある日、ウインカー操作を誤ったのが原因で、後続車と接触事故を起こした。彼女は看護婦長である母の知恵と地位を利用して、ムチウチと偽装した診断書を提出し百八十万ほどの保険金を表向きは合法的に獲得した。それは彼が汗水流して働いた二年分の金額を優に超えていた。 PS:悪かどうかは分かりませんが、資本主義の極端な例を書いてみました。 獄卒初心者