ひたり、ひたり、と。どこかから追いかけてくる足音に、本当は気付いていたのだ。  ただ、タイムリミットへの焦燥から逃げられるよう、恐怖に知らぬ振りが出来るよう、目を背けて耳を塞いで。 * 百日紅(さるすべり)は悠を持つか  かつーん、と、軽い音がして。次いで、ぽちゃん、と。  軽石が池に転げ落ちるような音だと思った。  意識してしまったので振り向いてみると、波紋は既になく。小さな水面は、ただ静かに在るだけだった。不思議に思って覗き込んでみても、奥底までも何もない。 (空耳?)  気もそぞろなのはよろしくないなぁ、と適当に思う。うーんっ、と思いっきり伸びをしたら、頭がすっきりした気がした。実際なったかは別として。気がする、という勘違いは結構大事なものなのだ。  ふにゃあ。押し殺せずに息を吐く。この頃の陽気は、妙に眠気を連れて来るので気持ちがいい。どこでも寝てしまいそうだ。  寝るのは大好きだ。もうずっと眠っていてもいいとさえ思う。 (君は寝すぎだと笑うけど。だってさ、気持ちいいんだもん) (それに、ねぇ、)  君にはこの世界でしかあえないんだ。  ざぁ、と。温度の違う風が吹いた。  色があるとしたら、淡い紅の。温かい、でも不快ではない、空気。ざわつく、本来彼女が生きるに正しい季節の温度の。 「ご機嫌よう、陽だまりのおにーさん」 「こんにちは、みゆさん」  おどけた口調で、くすくすと。あぁ、相変わらず、きれいなひと。  百日紅のお姉さんは、今日も、綺麗に咲いて綺麗に笑う。 「また寝ているの。いくら春になって気持ちいいからって、寝すぎよ。もっとお外に出て走り回って、楽しいことがあるでしょうに」 「眠くなっちゃうんだよ。仕方ないんだもん」 (眠れば、ここであなたにあえるからだよ。)  ふわり。あぁ、しょうがないな、と笑うその顔が優しくて、とてもとても好き。  ある日突然、前日のことも思い出せなくなって何もかも分からなくなって、まっさらな記憶の中にぽつりといた。そこに、暮らしていた跡はあった為、自分の拠点だけはすぐに分かったけれども。  そんな、ふわふわとした感覚の中を何とか過ごし、少しずつ慣れてきた頃。  ある日から、眠ったらいつも、彼女がここに現れるようになった。百日紅に宿る、あたたかな人。 「時期違いだけど、咲いてしまったの」  困ったように笑って。それからずっと、夏のぬくもりと一緒に、ここで自分を迎えてくれる。 「ねこじゃらしがたくさん生えている庭の隅に行くとね、」 「池に、橋が架かっていると思うのだけれど。真ん中で水面を覗き込むとね、」 「青い屋根から大きな木に登れるのだけれど、二番目の枝の下に小さな洞(うろ)があってね、」  彼女はいつも、起きた時の自分の為に、面白いことをたくさんたくさん話してくれる。  どうしてそんなに色々なことを知っているのか尋ねたら、「見てきたから」という答えだった。分からなくなる前の、自分を。 「普通より早く咲いてしまって、ね。暇だったから、ずっと、見ていたのよ」  ちょっとだけ恥ずかしくなったけど、覚えていない頃の自分のことは自分では分からないし、何より彼女がとてもとても嬉しそうに笑うから。  別に、自分のことを知りたいわけではなかったけれど、彼女の笑顔を見るために、ずっとこうして、彼女と僕の思い出話を聞いている。  かつーん、てん、てん、ぽちゃん。  あぁ、また。  一度意識してしまうと、やはり耳についてしまうものなのだろうか。歌のワンフレーズがやけに頭から離れないのと同じ。耳鳴りとは違うけれど、気にしてしまって何だかめんどうくさいなぁ、とぼんやり。  とは言っても、意識しなければすぐに忘れるからいいのだけれど。  すぐに、意識は目の前の彼女に戻る。  今日も、ざわざわと気持ちいい空気。 * 「今日はね、」  うーん、と。遠くを見る目で、悩むように少し唸ってから、彼女はゆっくり切り出した。 「君が、私にしてくれたことを話そうかしら」 「……僕が、みゆさんに?」  うん。  小さく頷いて、どこか自信なさ気に。ゆっくりゆっくりと、話し始めた彼女を、じっと見上げた。 「私というか、正確には、私が咲く直前のことなのだけれども」  みゆさんは、百日紅の樹本体ではなく、今期の花なのだと言っていた。 「鞠の話をしたね。綺麗な、鞠を買った話。ころころ転がしたら、君はとても気に入ったみたいで。高い物なのに、そんなこと当然君はお構いなしなものだから、追い掛けては抱え込んで爪を立ててね」  ……あれ。  何だか、違和感を覚えた気がした、けれど。  よくは分からなかったから、気にしなくていいやと思った。  続きを促すようにじっと見上げていると、彼女は、くすくすと可笑しそうに続ける。 「あまりにも、私より君が気に入ってしまったものだから。すぐにぼろぼろになるのはもう目に見えていたし、まぁいいかって思って」 「でも。君もすごく夢中になっていたけど、多分私も、同じくらい夢中になっていたのね、」  周りを見てなかったの。何も、見えてなかった。 「君は、私を庇うように、前に飛び出してきてくれた」  ごめんね。  珠君。  ごめんね。 「まもろうとしてくれて、ありがとう。ありがとう。ごめんね。」  君が、本当に、愛しい。 「……?」  どういう話か、よく分からないまま、時間が終わってしまった。  薄らと、抱きしめてくれる彼女のぬくもりと、冷たい涙の感触を残しながら。 (よく分からない、けど、) (そんな顔しないで、) (泣かないで泣かないで、君はよく泣くけど、やっぱり笑顔が好きだよ) (……あれ?) *  あの場所が夢だということには、初めて彼女とあった時から気付いている。ふわふわとした世界。でも、現実でも夢でも、どちらでいいと思った。現実じゃないのであれば、眠って、彼女にあいにいけばいいだけだ。  彼女は百日紅、自分は猫。身軽に動ける方が、動けばいい。 (そういえば、)  そういえば、  彼女が現実の方ではどこに咲いているのか、知らない。 *  あの揺らぎがなかったかのように、今までと変わらない日々が続いた。  やわらかに笑う彼女、他愛もない話を転々。ただ穏やかに、その空気の中にまどろんでいた。  あの音は、既に、気にも留めなくなっていた。 * 「もうすぐ、」  ふ、と。  思い出したように切り出した彼女の口調は、普段と何ら変わりなくて。 「もうすぐ、ばいばいなの。ごめんね、たくさんたくさん、ありがとう。」 「……?」  あまりにもさらりと、笑うから。それがどういう重みを伴った言葉なのか、耳に入っただけでは全く分からなかった。  困ったように、また、さらりと、彼女は笑う。初めて見る、それは、苦笑かもしれなかった。 「ばいばいなの。もうすぐ、私散るのよ」 「……え、」  自分は、どんな顔をしているのか。彼女は、あやすような口調でそっと、言葉を繋いでいく。 「いくら、百日紅だから長く咲くとは言っても。花ですもの。遅いだけで、終わりは来るのよ。永遠には咲けないわ、」 「……ごめんなさい、本当は、もっと早くに分かっていたのに、言い出せなかったの」  珠君。 「たくさん、ありがとう。記憶を奪ってごめんね。でも、君がまもろうとしてくれたから、今日まで私は生きていられた」  かつん、かつん。  ぽちゃん。  耳鳴りが。  もう、気のせいではなかった。水面が揺れる。紅い花が、ひらり、ではなく、ほとり、ほとり、と、重みに耐えかねたようにまぁるく落ちていく。  唖然と、見つめた。落ちていく彼女の足元を。花として散っていく、彼女の足元を。  みゆちゃんみゆちゃん、みゆちゃん。  駆け出していた。夢の中の、言葉を喋れていた姿ではなく、現実の姿で。  ばしゃん。水面が広がっていく。いつの間にか渡れないほど広く深く。  遠くて、さっきまでここにいたのにもうあんなに遠くて。  みゆちゃん。  呼んだのに、今までのような綺麗な言葉にはならなかった。にゃあ、と、鳴く声にしかならなかった。 「珠くん、」  彼女が笑う。もう届かないところで、はらはらと、散りながら。大好きな笑顔。まもりたかった笑顔。あの瞬間、どれほど強く自分がニンゲンだったらと思ったことか。自分が、身を挺して出来たことなんて。 「たーまくん。」  ほら、泣かないで。 「……うん、君たちよりはやっぱり、少し長い寿命を生きられるものだけれど。でも、もう、夏までは生きられないみたいだから、最後に君にあいにきたの。」  その頃に咲く、私の好きな、君の好きな、あたたかな匂いの百日紅にしてもらって。  ……私と君のお誕生日。もう一度、一緒にお祝いしたかったね。 「ありがとう」 「ばいばい」  ほつり、ほつり、ぽちゃん。  彼女が散っていく姿を、ずっとずっと、見ていた。  残された広い広い水面は、いつまでもいつまでも、凪ぐことはなかった。 *  西日が淡い色を作っていた。  高い木の、洞の中。彼女が教えてくれた、自分がお気に入りの寝床にしていた場所。丸めていた身体を解す。鈍い感覚に、最後の時間が終わったのだと知った。ぼんやりと、狭い空を見つめて。  洞から出て、枝を勢い良く登った。高い場所へ。広く世界が見渡せる場所へ。  春先のまだ冷たい風が、かさかさと揺れる。  夏の気配など、まだどこにも訪れはしない。  広がるあお、だいだい、みどり、家々や木々、……何度も、何度も見渡した景色だ。何度も見て、諦めたつもりの景色だ。  ちゃんと気付いている。彼女は。  ただ、諦めたくなくて、泣きたくなかっただけだ。  にゃー、  ……もう、きみのなまえをただしく呼べることも、二度と。  百日紅は、今日も見えない。 * さいごのしあわせな夏。 3912字。 ありがち、ベタベタの詰め合わせ。