蝉が喚き始めた。  複雑な音色は本格的な夏が近付くにつれて激しさを増し、それは立派な騒音となってこの狭隘な六畳間に響く。  毎日突貫工事の石を砕く音が聞こえ、急に現代化が進み始めたこの街に住んでもう半年にもなる。街の偉い人は何を考えているのかいまいか、あちらこちらに首の長い工事車や土を抉る装甲車みたいな機械を配置し、発展だなんだと言って背の高い建物や道路の整備を行っていた。僕の住むアパートの横にも、近いうちにマンションが建つらしい。  そんな未来の無いアパートの、暗鬱としたこの狭い空間に死んだように四肢を投げ出して転がり、ひたすら天井の木目を睨んでいた。この部屋に越すと決め、半世紀生きた両親に立地が悪いと躁狂な声で難色を示されもしたが、今では立派な僕の家だ。  まだ昼前だというのに、蛍光灯を点けないこの空間は酷く濁っていた。軋んだ雨戸を半分まで閉め、少しでも日差しを浴びまいとする。日光は……何となく、苦手だ。  扇風機にはまだ命が入っていない。使い古された首が折れて下を向いている。基盤に手を伸ばそうとして、やめた。暑さを我慢できない訳でもない。非常に無意味に思えたのだ。  汗が汗腺からじわりじわりと滲み出ていく。ぬるいコーラを浴びたかのような不愉快な感覚に、しかし僕は起き上がろうとはしない。  目の端が痙攣を起こす。気怠さを覚え、開いていた目を閉じた。  真っ暗な空間。赤や緑が散って消えてを繰り返す、目の裏の世界。  思考なんてただの重りだ。  考えれば考えるだけ重力を増す。  なら、何も思わない方がいいのに。  寝返りを打ち、そっと目を開ける。思考の回路が砂の様に消えて混ざり、僕の部屋の一員となる。  そうやってこの部屋は散らかってきた。  いつだって、今だって。 【暗転】  赤い自転車のあの子。  ぼくはずっと見ていた。  毎日毎日。  いつも同じ道を通るものだからつい、  見蕩れていた。 【暗転】  目を覚ましてようやく起き上がった。体は重力に逆らわずこのまま寝転んでいたいと文句を言っていたが、黙殺して財布を手に取りおざなりに家を出た。  安っぽい家の鍵を手の中で持て遊びつつ、発展途上の道を行く。よれたシャツにジーパン、サンダルという傍から見れば少し近寄りがたい風貌である。自転車のタイヤの空気を手動で入れる自転車屋の主人の横を通り、煙草の自動販売機の前で屯する高校生の集団を避けて通る。相変わらず地鳴りと共に工事の音はそこら中に響いていたが、耳が慣れてしまったのかそれはもうただの環境音と化していた。  二つ角を曲がったところにある、行きつけのコンビニエンスストア。安っぽい入店音と店員のいらっしゃいませは環境音にかき消され、何も気にすることなく雑誌コーナーへ向かう。確か今週発売の少年誌が出ていたはずだ。 「唐揚げ買おー」 「太るよー」 「今日はテスト頑張ったから御褒美なの!」  若い女の子達の黄色い会話が聞こえる。雑誌を立ち読みしながら、しかし耳はそちらへ向いていて。 「テスト難しくなかったー?」「やばい超金無い」「バイトしてぇー」「チーズ味1つ」  少女達の話のベクトルがあちらこちらに交錯しており、土を削る機械の音よりも雑音に近い。 あの子も。 いや、あの子は。 雑音なんて発したこと、なかった。 あの子が最後に発した『音』は――  コンビニエンスストアで水と明日食べる菓子パンを購入し、白いビニール袋に入れて店を後にする。帰り道は先程とは違う道を行くことにした。  生垣を整える庭師を横目に見つつ、ゆるやかに下る道を遮る、黒と黄色の遮断機。  僕はその前に立つ。  別に遮断機が下りている訳でも、何かを待つ訳でもない。  熱気が鉄と混じり、陽炎が揺れる。線路の遥か向こうをきちんと認識できない程度に。  そして、遠くから徐々に近づいてくる、滑車が線路を滑る音と、踏切の警告音。どうやらもうすぐ電車が通るのであろう。  思わず一歩後ずさる。  あの時の情景が脳裏に焼き付いている。  もう、やめてくれ。  思い出したくも、ないのに。  電車と警告音が、僕の前の踏切までやってきた。  後の祭り。  僕はあの時から動けないままでいる。  【暗転】  雨の日だった。前日から降り続いた雨は少しも勢いを弱めることなく、この街を沈めていた。  独特の濁った湿気の感覚。纏わりつく水分は、しかしどこか心を落ちつかせる。  僕は踏切の横にひっそりと生えた雑草の上に居た。あの頃も今と変わらず、非活動的な体。  記憶は残っている。珍しく。本当に、稀なことなのだろう。  彼女が傘を差しながら自転車を転がし坂から下りてくる。いつもとなんら変わらない光景。違うと言えば、傘を差している事ぐらいであろう。  彼女は僕に気付いていない様で、少し慌てているのか顔が緊張している。  と、突如雨の音を掻き消して警告音が鳴り響いた。  鉄を殴りつけるかのような、激しくて耳の痛くなるような音。近付く者は許さないと言わんばかりの拒絶の音色。  遮断機が下り、だんだんと近づいてくるのは鉄がごうごうと動く音。  僕は彼女から目を逸らせずにいた。  彼女の白い手は、拙い握力で自転車のブレーキを握りしめている。  雨で濡れたブレーキのゴム部分が滑って、タイヤの回転を必死に止めようとする。  坂で勢い付いた速さは、最早留まるところを知らない。  加速し続け、  やがて、  彼女は拒絶の向こう側へいった。  【暗転】  赤色を今も覚えている。  彼女を救いたかった。  その直後降り注いだ彼女の断片により、僕も命を落としている。  珍しく思った。生前の記憶が残っているなんて。  電車が通り過ぎ、警告音は何かに斬られたかのようにすっぱりと聞こえなくなる。同時に遮断機がのろのろと上がり、何事も無かったかのように陽炎の景色が戻ってきた。  僕は踵を返して元来た道を上っていく。  のろのろと、とろとろと。  彼女の残した『重さ』が、今でも背中に張り付いて離れない。